安住の地
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【劇評公開】『ポスト・トゥルースクレッシェンド・ポリコレパッショナートフィナーレ!』


┃移動、侵食、運動、共鳴。

 
 ずっと団体名が気になっていた。まず劇団の名前らしくない。情報はネットから収集するのが当然の時代なのに、検索で見つけづらい。何よりも、演劇をすることと安住という言葉のイメージがかけ離れている。経済的な安定の話は置いておいても、アナログな表現と非効率な方法で、不特定多数の人に何かを伝えようとする演劇は、予定通りに行かないことのほうが多いはずで、およそ安らぎとは程遠い──。それらを承知した上で、あえての皮肉、あるいはユーモアなのだろうか。まったく同じ『安住の地』というタイトルの、いわゆる青年漫画家の山本直樹の中編があり、これが(他の山本作品と同様に)、一見、タイトルとは真逆の内容なのに、よく考えるこれほどぴったり来るものはないと思わされるもので、そんなふうに反対の見方が成立することを目指しているのだろうか。それともストレートに、演劇=平穏と定義する世代が出てきたということか。何しろ設立は3年前、劇団員は全員20代の若い劇団だ。

 こう考える時点で、安住の地の術中にハマっているのかもしれないが、もちろん劇団サイトをチェックすれば、作・演出のひとり、岡本昌也の言葉によって劇団名の由来は説明されている。少し長くなるが引用する。

安住の地というのは「何の心配もなく落ち着いて住める場所」という意味です。安住の地は、多くの人がひとつは持っているものだと思います。そうでなければ、常に希求しているものだと思います。そして、共有することも、独占することも、誰かから奪うことも、誰かに与えることもできるものです。これはぼくが劇場に求めている形に似ています。劇場には作品があります。そして作品は、ぼくたちとみなさま、あるいはみなさま同時で共有することも、独占することもできます。ぼくたちは作品によってみなさまの何かを奪うことも、何かを与えることもできます。みなさまは鑑賞や感想、批評によってぼくたちから何かを奪ったり与えたりできます。これらはすべて劇場で起こることだし、作品はそういったものであるべきだと思っています。劇場が一時的にでも、ぼくたちとみなさまの安住の地となって、ぼくたちとみなさまが集い、それぞれが生きている世界を見たり、隣に住んでいる人たちと関係したりするような作品がある、そんな団体になればいいなと思っています。

要約するなら、安住の地とは誰もが持つ、もしくは求める平和な場所のことではあるが、ひとりの充足で完結するものではなく、他者と共有でき、影響を与え合い、時には傷付けたり争ったり奪い合うこともある可変の領域、ということだろうか。そしてそれは岡本が劇場に求めるものと同じなのだという。さらに解釈させてもらうなら岡本たちは、理想を実現するためには他者との領域を超え続けなければならない、と考えている。そうして手に入れた平和の場所があったとしても、固定されているはずはなく、この若者たちが定義する安住の地は絶えず形を変え、動き、永遠に追いかけ続けていく対象になる。

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 彼らの作品を初めて観た。これまた推測のしがいがある『ポスト・トゥルースクレッシェンド・ポリコレパッショナートフィナーレ!』というタイトルだがそれはしない。なぜならこの作品全体が、かなわない理想を求めて移動する人間を描いた、つまり劇団名に込められた思いと一致するものだから。これまでの安住の地の作品を私はひとつも知らないが、この長々しいタイトルを「安住の地」のルビにしていいくらい、現時点の集大成ではないかと思う。

 会場となったロームシアター京都地下のノースホールは、劇場というよりスタジオで、何もない空間を自由に使える。今回は客席のほうが高くなるように足場が組まれ、アクティングエリアにはカラフルな無数のおもちゃが雑然と、けれどもいくつかのまとまりのような形で広げられていた。大小さまざまなぬいぐるみ、蛍光カラーのボール、Tシャツなどの衣類もあったと思う。その中でもコンピュータゲームの機器類に目が行ったのは、ノースホールに入る手前の1階ロビーに、この作品のオリジナルキャラクターで、いかにも今どきの人気アニメといったルックスの「亜純ゆる」のパネルが「撮影はご自由にどうぞ」と出迎えていたからかもしれない。

 亜純ゆるは劇中で大活躍する二次元キャラで、場内の大型スクリーンに度々登場する。Vtuberで「ゆるちゃんねる」という番組を持っており、その配信を通して観客に、変化したシーンの背景につながる情報をさりげなく教えてくれる。作品世界と観客の橋渡しが都合よく登場するのは、普通、劇作家の手抜きに思えて腹立たしいのに、二次元というさらに都合の良いこの存在にはそれを感じなかった。

 さて、亜純ゆるはよく喋る。彼女のMCによってわかるのは、まずこの物語の時間軸が非常に長いこと、そしてその一方で、空間的にはかなり限定的であるということだ。

 時間については出発点がジュラ紀まで遡る。それまで地球にあったのは巨大なひとつの陸地だったが、1億8000万年前頃に7つの大陸に分かれたという説があり、そこから始まるのだ。そして現在より少しだけ未来らしい時代へと移り、新しいノアの方舟がつくられ、出航するまでが描かれる。ノアの方舟が単語や形で明示されることはないが、劇の後半に登場し、「最近、バグが起きる」とされるゲームの名前は「ゴフェル」で、ドラゴンクエストにも出てくるそうだが、旧約聖書でノアの方舟の材料になった木の名前なのだ。また、ゆるの曲の歌詞にある「長さ300、幅50、高さ30」という数値は、ノアの方舟のサイズと同じだ。

 一幕、大陸が「その頃はいた神様によって」時間をかけて分かれたとゆるが語ると、大きなガラクタのかたまりだったビニールシートが俳優たちに引っ張られて広がり、7つに分かれる。物理的な分裂によって人間の移動は始まり、「ヨーソロー!」「舵を切れ〜!」「面舵いっぱ〜い!」と景気よく始まるが、航海は早々に暗礁に乗り上げ、「東の端っこ」という限定された場所で暮らす人々の様子が描かれていく。

 そこで起きているのは、ホームレスの増加、貧困層の拡大、バーチャル婚、レンタル家族、ネット依存、援助交際など、今の日本で憂慮されている事柄が深刻化、複合化した問題だ。それぞれの出来事と出来事のあいだには、時間、空間ともに断絶があるのだが、登場人物たちはあちこちを歩き回り、走り回るので、そのたびにおもちゃや雑貨が散らばって、シートとシートのあいだにあったスペースは次第に見えなくなり、断絶は曖昧になる。登場人物たちの移動の動機は、自主的なものもあれば、逃走も、強制的なものもある。けれど、せわしなく動く彼らの足元から立ち昇るものはひとつ、切なさだ。ホームレスでも同情されたくない、援助交際なのに打ち切る時は気を使う、冷たい対応しかしてくれない彼を励ますなど、少し曲がった状況下で自分ができる最善を遂行する人々。彼らの右往左往が、あの問題とこの問題を、あの人とその人をくっ付け、重ね、さらに私(たち)と結び付く。7つの陸地は、物理的には離れたままかもしれないが、その切なさを知っている、という共鳴で、私(たち)がいる8つめの場所と重なる。『ポスト・トゥルース〜』の人々の移動に、いつの間にか私(たち)は同行していたのだ。物語の最後、氷河期並みだった彼らの世界の気温は上昇して春から夏へと向かい、ひととき安らかな時間が訪れるが、それはハッピーエンドではなく、氷が溶けて大洪水へと向かうフラグだろう。彼らの中に、ノアの方舟に乗れる人はいるのだろうか。

 それにしても驚くべきことに、悲しくも美しい余韻を残すこの作品は、前述の岡本と、やはり劇団員の私道かぴの初めての共同作・演出なのだという。いつもはそれぞれの作・演出作品をほぼ交互に上演しているそうだが、ふたりの作家が関わったツギハギ感を、私は感じ取ることができなかった。終演後、興味があったので「ふたりの作・演出家がいることで劇団の個性がぼやける心配はないのか」と聞いてみた。するとふたりは、そんなことは思いもよらなかったという表情で「ひとつの劇団に作・演出家がひとりと決まっているわけではないので」と言い、「作・演出家がひとりだと、どうしても負担が集中して疲弊しますから」と言った。それは、この先の移動の長さを知っている人の言葉だった。

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徳永 京子

演劇ジャーナリスト。雑誌、ウェブ、公演パンフレットを中心にインタビュー、作品解説、朝日新聞首都圏版に劇評を執筆。ローソンチケット演劇専門サイト『演劇最強論-ing』企画・監修・執筆。東京芸術劇場企画運営委員。パルテノン多摩企画アドバイザー。せんがわ劇場企画運営アドバイザー。読売演劇大賞選考委員。著書に『我らに光を──さいたまゴールド・シアター 蜷川幸雄と高齢者俳優41人の挑戦』、『演劇最強論』(藤原ちからと共著)、『「演劇の街」をつくった男──本多一夫と下北沢』。

┃世界を更新するのではなく、世界と行進する

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 あとで電話するねって、今だったらどんな仕草をするだろう?古い話で恐縮だが、かつては親指と小指を伸ばして「電話」のポーズをする人もいたが、最近では、そもそも電話すること自体が減ってきている。だから「電話」を身体的に捉えにくいのかもしれない。それに最近よく見かける、ハンズフリー通話にいたっては電話という行為は口のみに凝縮されてしまっていて、口とそれ以外の身体とは切り離されているようにも見える。さながらベケットの『Not I』に出てくる、暗闇にぽっかり浮かんだ口のようだ。電車や街頭で一人ぶつぶつ呟いている人がいれば、だいたい誰かと通話している。目はしっかり前を向き、目的に向かって足早に歩を進めているのに、愉快な話題なのか口元は緩んでいる。口と口以外のテンポのズレが薄気味悪い。この不気味さは口の背後にあるコンテクストを共有できないために引き起こされているのだろう。口とそれ以外の身体部位は、当たり前だが、物理的にはくっついたままだが、通話中の両者は異層にあって分裂しており、口=話者の文脈がわからない。だから不気味に感じるし、口以外の身体と一緒にこちらも切り捨てられた気がして少し寂しい。

 安住の地の新作で、観客はこのような異なる次元に引き裂かれた身体を目の当たりにすることになる。舞台に敷き詰められたブルーシートには、長い年月をかけて溜め込まれた廃棄物のようにガラクタが積み重なっている。よく見るとそれは玩具の山で、ボードゲームもあればファミコンのようなテレビゲームもある。テクノロジーの発達とともに変化していった遊びが地層のように示されているのだ。舞台の左右にはモニターが設えられ、上演中、「亜純ゆる」という二次元キャラによる「ゆるチャンネル」やYoutuberによる番組「パオパオチャンネル」が配信される。他にも本作には、ゆると結婚しようとする男や、終始VRゴーグルをかけっ放しの仮想現実中毒者も登場し、観客は目の前に広がる空間=ここ・ではない世界と接続した人々を観察することになるのだ。

 物語の主軸を引っ張っているのは、ユーナ、ミサト、アイという女子高生グループだ。他の登場人物たちは彼女たちから派生するように位置付けられている。ユーナにはVR中毒の姉ミホと、付きっ切りでミホの世話をする母がいる。ミサトはパパ活でトキトウという中年男性と知り合うが、後に彼は二次元キャラ・ゆるとの結婚を決意すると、ミサトのもとを去る。このように二人はバーチャル世界にどっぷり浸かった者たちに翻弄されるが、アイにはセトという「リアル」な恋人がいる。劇中詳しく説明されないが、どうもセトは震災によって家を失い、アイたちの街へ引っ越してきた転校生らしい。そのせいかはわからないが、彼は心を閉ざしており、アイが一方的に想いを寄せている。たとえ現実世界で恋人同士であっても、つながりが不安定という点ではアイも他の二人とあまり変わらない。

 本作に散りばめられた様々なモチーフは、どれも日頃話題に上るものばかりだが、作・演出の岡本昌也と私道かぴは無防備に、目新しい事象を行き当たりばったりにコラージュしているわけではない。三人の女子高生がストーリーラインを形づくっていくと述べたが、物語は単線的に進むわけではない。見方を変えてみれば、ミホ、トキトウ、セトといった彼女らを取り巻く人物から派生する物語を主として考えることもできる。三人の女子高生はそうした別々に存在する世界にライトを当て、その断片を観客に示すことで、こちら側の世界との接点を作り出すコネクターともみなせるのだ。

 今回は岡本と私道が共同で脚本を書き、演出したとのことだが、この創作方法が劇構造に厚みをもたせた一因だろう。また、劇中、「はやいとこ体なんて捨てた方がええで」という、作品の核心をつくかのようなストレートな台詞が出てくるが、それを一見なんてことのない脇役にあっさりと言わせることで、台詞の重みをさらりと減らしてみせる。戦略的な台詞の配置だ。加えて、この役を演じたタナカ・G・ツヨシの力の抜き方も絶妙だ。この台詞によって、肉体を捨て仮想空間に生きることが理想的に語られるわけだが、それとは反対に躍動する肉体を感じさせる演出が施されていることも見逃せない。それは冒頭から示されている。出演者全員が大声をあげながら、まるで幕開けを宣言するかのように、ブルーシートをひっぱる光景は、取り残された肉体の叫びにのようでもあったし、中盤出てくる競馬中継のシーンで、何かの強迫観念に取り憑かれたかのように役者が舞台上を疾走する演出も、息づかいや汗を印象づけた。さらに、終盤、中村彩乃演じるアイがセトに放った台詞「どんだけ嫌がられてもうざがられても!私は関わり続けるからねーー!もういいって言うまで、一緒に居続けるからねーーー!」は、先のからだなんて捨てた方がいいという台詞に拮抗するものとして鋭く響いた。中村のまっすぐな眼差しも印象深い。

 本作では現実と仮想現実がどちらかが本物で、どちらかが偽物として扱われているわけではなく、一方が優れていて、一方が劣っていると主張されているわけでもない。どちらもが等価であり、両者を切り離されたものとして扱うのではなく、やわらかくつなぎ合わせるすべが探られている。例えば、ユーナとVR中毒のミホの関係を通じてそれは示される。目は口ほどに物を言うという諺の通り、コミュニケーションにおいて目の物語る力は大きいが、VRゴーグルをかけっぱなしのミホが何を考えているのか推測するのは困難だ。彼女は終始動き回っているが、その動作は彼女にだけ見えている仮想空間では意味をなすが、ユーナや母にとっては不可解なものだ。また、逆に、ユーナや母の呼びかけは、異なる次元にいるつもりのミホにとっては無意味なノイズにすぎない。

 ミホという異なる次元に引き裂かれた存在に周囲が振り回されるのを描くだけだったら、本作はいささか平凡な現代の悲劇に終わっただろう。だが、本作はその先を描こうとする。ユーナとミホが立場を逆転させるのだ。ミホを前にうろたえるばかりの母に耐えかねたユーナは、ミホからゴーゴルを奪い、取って付ける。自分の世界を奪われたミホは目を覆い悲鳴をあげ、ユーナもその場に倒れこんでしまう。だが、二人は壊れてしまったわけではなかった。ラストシーンである花火大会の場面に二人は姿を現す。VR ゴーグルを付けたユーナの手を引いているのはミホだ。彼女はユーナを現実に引き戻そうとするのでもなく、かといって母のように、腫れ物に触るような態度をとるわけでもなく、ただ静かに手をとって、寄り添っている。まるでその姿は異なる次元同士の仲立ち役のようだ。

 当日パンフレットで岡本は、本作について「わたしたちのジェネレーションが最新ではなくなってしまう時、アップデートを“後で通知”しないための演劇」だと述べている。テクノロジーの発達が進めば、本作に登場する二次元キャラもVR ゴーグルも舞台に積み重ねられた古い玩具の山の一部にいずれなるだろう。そうした古いもの、取り残されたものを消去するのではなく、含みこみながら前に進みたい。本作はメンバーたちのそんな強い意志を感じさせる舞台だった。

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梅山いつき

演劇研究者。1981年新潟県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。早稲田大学演劇博物館で現代演劇に関する企画展を手がけ、現在、近畿大学文芸学部で講師を務める。アングラ演劇のポスター、機関誌をめぐる研究や、野外演劇集団にスポットを当てたフィールドワークを展開している。著書に『アングラ演劇論』(作品社、AICT演劇評論賞受賞)、『60年代演劇再考』(岡室美奈子との共編著、水声社)。



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